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COLUMN:07

海外駐在員が経験した、海外ならではのハプニング!

海外駐在員が経験した、

海外ならではのハプニング!

  • #海外駐在

世界中で活躍しているシークスの海外駐在員。

駐在している国の文化、宗教、環境によって日本では起こらないような出来事を経験することも!?
その一部をご紹介します!

高速道路でサイと鉢合わせ!

場所は中国広東省。取引先の営業マンと仕入先を訪問するために珠海の特別区へタクシーで向かっていました。しかし、道半ばの夜19時過ぎ、突然運転手が「特別区に入るライセンスを持っていないから、これ以上は進めない。」と言いだし降ろされました。しかも、高速道路の高架上で!
車が行き交う中、途方に暮れていると、なんと向こうから大きな物体が私たちの方に近づいてきます。サイでした!そう、角を生やした動物のサイです。でっかいサイが逃げ場のない私たちに向かってくるのです。
幸い、通りかかった車に助けられましたが、本当に驚きました。

男はつらいよ、男泣き。

仕事がうまく回らず、現地スタッフと衝突。ふがいなさに男泣きしてしまったことがありました。異国の地で孤独を感じていましたが、現地スタッフたちが帰り際に、差し入れをくれ「明日から力を合わせて頑張ろう。」と声をかけてくれたのです。言葉や文化の壁、仕事の進め方の違いなど問題はいろいろありますが、こちらが強い思いを持っていれば、力を合わせて仕事ができると感じました。

「あんたら間違うてるで!」

と叫んだら、アイルランド人がポカーン。

若いころ、いきなりアイルランドのお客様を任されました。英語とは思えないアイリッシュ訛りの英語でかかってくる電話さえ恐怖で自信喪失。そんなころ、会議に出席を求められ、しぶしぶ参加。案の定、全くわからないまま会議は進行。しかし、どうも自分の資料を見ても、話の雰囲気からも、在庫が間違っている!おまけに過剰発注だ!と思えたので、勇気を振り絞って「あんたら間違うてるで!」とアイリッシュ訛りに負けない大阪弁訛りの英語で意見をしました。“英語の分からんお前に何がわかるねん?”と言いたげな顔ばかり・・・。
ところが部長さんがちょっと待てと席を外し、資料を持って帰ってきて「おい、こいつの言うてること正しいで!」となり、「良かった。大きな在庫になるところやった、ありがとう。」と絶賛の嵐。その晩は、アイリッシュパブに呼ばれて、飲めや踊れやの大宴会となりました。

断食でも仕事!

断食の期間がやってくると、本当にみんな食事を取りません。なのに、普通に仕事をしているんです。空腹でも辛そうなのかと思っていたのに。でも、さすがに全員が定時退社でした。

日本の常識は非常識?

ある朝、少し強めの雨が降りました。すると、新人作業者の何人かが仕事を休んでしまい、生産が出来るかどうかという状況になってしまったのです。なんとか切り抜けましたが、雨くらいで休むはずはないという日本人の感覚が必ずしも当たり前ではないことを知りました。

10億円の被害をどうするの!?

2011年9月に発生したタイの大洪水で、アユタヤで借りている倉庫が水没し、約10億円の在庫に損害が発生しました。洪水時の在庫額・仕入額・売上額を確定し、保管求償のための基礎データを作るのに四苦八苦しましたが、保険会社と交渉し、ロスアジェスターによる調査の段階までこぎつけました。ところがロスアジャスターの段取りが悪く、求償がなかなか進みませんでした。本社からは早く求償のレターを取るようにと急かされている状況の中、最後は洪水のくさい臭いが残る倉庫のなかでロスアジャスターと怒鳴りあいの議論。最終的に保険金が全額おりた時は本当にほっとしました。

大洪水!

情報収集も自分でやりました。

2011年のタイの大洪水。11月初旬には、北からだんだんと水が迫ってきて、バンコク北西部を中心に洪水の被害が拡大。実際にどこまで水が来ていて、いつ居住地区へ来るのかという情報がつかみにくく、自分で写真を撮りに行ったり、工場近くの川の水位を確認しに行ったりしました。最終的には、工場へは水が来なかったのですが、日本では考えられない大きなアクシデントでした。

こちら、ヒューストン。

パニックです!

メキシコからシカゴに戻る途中、天候悪化でヒューストンに一時着陸。しかし、天気はますます悪くなり、空港内で一夜を過ごすことになりました。翌朝まで猛烈な風雨が続き、ついには主要幹線道路が水没、空港閉鎖。私は豪雨のなか歩いてレンタカー屋へ。何時間待ったかは忘れましたが、奇跡的に戻ってきた1台の車を無理やり借りて、なんとかダラスへ。どこをどう通ったのかも思い出せないのですが、危うく難民になることろでした。

月間数億円のプロジェクトを1人で!

思い出に残っているのは、2003~2004年にタイで担当させていただいていた液晶ビジネスです。当時はまだ入社して2~3年目でしたが、月間数億円という非常に大きなプロジェクトを1人で任され、毎月、タイと日本を往復しながら、お客様と工場の調整を行い、立ち上げ・量産を繰り返しました。今でも当時のお客様とは仕事上のつながりはないものの、時節のご連絡をいただける関係です。

謎の粉で入国拒否!?

1992年のこと。駐在国への入国しようとした時、手荷物のハンドキャリーから出てきた粉を薬物と間違われて立ち往生。金型を磨く為の粉だったのですが、粉の匂いまで嗅がれ、冷や汗をかきました。

危機一髪の猛ダッシュ!

バンコク駐在して間もないころ。タイ人運転手と意思疎通が上手くできず待ち合わせ場所で落ち合うまで1時間かかりました。日本から出張していたお客様をそのまま空港にお送りする予定時間が迫っており、1年分の汗が出ました。猛ダッシュで空港に向かい、なんとか定刻のフライトに間に合いました。さすがにまずいと思い、基本的なタイ語を覚えました・・・。

これがインドネシアだ、

ジタバタするな!

“Jangan Menyerah(決して諦めないで、という意味のインドネシア語)”、私が初めての駐在国であるインドネシアで最初に買ったCDのタイトルです。赴任後、現地に慣れる間もなく、最初の金曜日。税関局の現地監査が実施されました。そこで、幾つかの指摘事項を受け、回答日を確認したところ、週明けの月曜日。この指摘事項を仕上げるには、数多くの書類が必要になる。私は大至急、書類を作成し、夕方17時にサインをもらいにいく段取りを整えたものの、道路は日本の帰省ラッシュのような大渋滞。急かす先方、動かない車、必死の電話説得。最後は車を降りて、人混みと車の間を歩いて何とか到着して事なきを得ました。そんな中でも、同乗のインドネシア人は笑いながら、「This is Indonesia.」こんなのよくあることだ。ジタバタするな、と。
夕日のなか、ジャカルタ中心部へ繋がる道路の車の列を見ると、今でもあの日のことを鮮明に思い出します。遅れ遅れのなかでも、何が何でもやり遂げる。諦めなければ、道は開ける。“Jangan Menyerah”決して諦めない。これが、インドネシアでの私の仕事の原点です。

ヤモリは鳴くんだよ!

「ヤモリ」が鳴く事を初めて知りました。

タイ洪水のサポートで感謝状。

タイに駐在していた時に、タイ洪水が!
被災したお客様にローカルスタッフと共に必死でサポートしました。あとから感謝状をいいただいたのですが、あれはうれしかったです!

友だちの友だちは友だちだ!

友だちの友達が意外と多くて、友だちがすぐにできます。同じソフトボールのチームに、大学の野球部の先輩後輩の友だちが数名。狭い国、シンガポールならではかと。

古き良き時代のタイがくれた思い出。

タイ駐在中の1990年、アユタヤを巡る観光の最中に停車の勢いで長女(当時1歳)が車内で転び側頭部に裂傷を負いました。駐車場に居合わせた四輪タクシーの運転手が出血した長女を見て駆け寄ってきて病院まで搬送してくれました。運転手が開業中の病院を探すこと30分、治療が終わるまで付き添ってくれ、その後、観光バスに合流しました。病院に向かう前にバス運転手に観光ルートを聞いていてくれたからです。タクシー代金が事前交渉制の時代、代金を尋ねると「いくらでも構わない。」との返答。古き良き時代のタイがくれた思い出です。

ジブリみたいな

風景に癒される。

EU圏では、宮崎駿アニメやアルプスの少女ハイジなどに出てくる本物の風景に出くわし、ほっと癒される時があります。

尊敬する商社マンを追うようにバンコクへ。

右未左も分からぬ台北駐在のころ、5歳年上の化学系の商社マンと知り合い、中東などで武勇伝を聞き、商社マンとして憧れ、それから公私でお付き合いいただきました。2年ほど経ったころ、彼のバンコクへの転勤が決まり、連夜送別会を行い再会を誓い、別れました。その翌週、今度は私にバンコクへの転勤辞令が出ました。彼は現在日本にいてますが、今でも家族ぐるみの付き合いをさせてもらっています。

ああ、私は縁結びの神様です!?

4年前、タイで私の知り合いの日本人の男性とタイ人の女性との縁を結ぶことが出来ました。もちろん、彼らは今も幸せに暮らしています。

ラーメン食べるときは

気をつけて。

タイでは麺類やスープを飲む時に音を立てたり丼を持ち上げたりしません。直接口をつける事は最低の行為とされるからです。そのことを知らない日本人がラーメンなど日本と同じようにズルズルと音を立てて啜るととても冷ややかな視線が突き刺さります。

ただいま!と帰ったら、

部屋一面が水浸し!。

中国に駐在していた2009年の話。中国東莞でアパート暮らしをしていました。夜帰宅してドアを開けて部屋に足を踏み入れたら、ピチャーと妙な音が!なんと部屋中一面の水浸し。トイレの水回りから水が噴き出していたのです。会社の総務を経由して、アパートの管理事務所に連絡してもらい、元栓を閉めて夜中までかけて排水しました。やれやれと思っていたら、今度は約1週間後、部屋のあらゆる壁からカビが約1メートルの高さまで生えてきたのです!床の張替え、壁の塗替えなど10日間くらい工事が続き、大家さんからは修理費用半額を請求されて踏んだり蹴ったり。拒否したものの、結局、物別れで引っ越しました。

酒を飲むなら要注意!

救急車は有料です。

社内歓迎会で調子に乗って飲み過ぎてしまいました。結果、急性アルコール中毒になり、救急車で病院へ搬送。たまたま研修医の実習中で、ドクターが英語で「見ろ、これが Japanese drunken man だ。」と説明し、研修医がメモを取っていたことを覚えています。死ぬほど恥ずかしかったです。ちなみに、翌朝は治療費と救急車代(シンガポールは有料)を徴収され、病院から追い出されました。

パッテン総督、

さようなら!

一番思い出に残っているのは、1997年香港の中国返還において、当時のパッテン総督の乗った船がビクトリアハーバーを渡って帰っていくのが家の窓から見えたことです。一つの時代の終わりを間近で見ることができました。